一方、アンディは皆と別れてから、真っ直ぐ宿に戻り、早々に部屋に入った。そして、鎧も脱がずに部屋のベッドに横たわり、大きく溜息をつく。ボルタックでのやり取りの所為で、ある男の事を思い出したからだった。男にしては少し長めの黒髪と、真っ直ぐで澄んだ黒い瞳を持ったその人物は、アンディが冒険を始めるきっかけになった男である。彼のその瞳は、何時も澄んだ光を放ち、真っ直ぐ前を向いていた。そして、常にアンディの側にいたのだった。
しかし、今はもうこの世にはいない……
二人の剣士が、山の中を歩いていた。一人は男にしては少し長い黒髪を風に靡かせ、澄んだ黒い瞳を真っ直ぐ前に向けている。もう一人は、被っている兜の裾から、柔らかそうな茶色の髪が零れ、明るい茶色の瞳をした、荒事には向いてなさうな男だった。
「ポーグロムのトレボー城迄、後二日ってところだな。アンディ、今日はこの辺りで野営するか」
「ああ、そうだな。ロウディ」
アンディと相棒のロウディは、比較的大きな木の下で野営する事にした。
アンディが薪を集めている間に、ロウディは焚き火を熾しながら、小さな声で歌っていた。少し掠れる事があるが綺麗な声だ。歌は、恋歌などではなく、望郷の歌だ。ロウディがこの歌を歌うのは珍しい。ロウディ性格は、何時でも前を見ているような性格だ。だから、豪快な英雄譚等を好んで歌う。そして、過去を振り返るような望郷の歌などは、殆ど歌わない。アンディもロウディが歌うこの歌を聞くのは、この旅に出てから二年が経つが、僅かに三回目だった。
「色々あったが、この二年は楽しかったな」
歌い終わったロウディが、しみじみと言った様子で言い、短刀を撫でた。
「もう二年も経つのか……。何か、あっと言う間だったな。とにかく夢中に走ってきた感じだった……」
アンディが焚き火に枝を放り込む。
「そりゃ俺の台詞だ。尤も、いっつもお前は、俺が走ろうとするのを、止めてたような気がするぜ」
ロウディは短刀で拾ってきた木の枝を落としている。ロウディの黒髪が焚き火に映え、黒い瞳に炎が映って幻想的な色を見せていた。
「買わなくて良い喧嘩を買おうとするからだろ」
「そんな事はない! 俺は買うべき喧嘩とそうでないのくらい判るぜ」
「そうか? 酒場で足を踏んだ踏まない程度で、喧嘩しようとしたのは、何処の誰だった?」
アンディの顔に、からかうような色が浮かぶ。
「あれは向こうが悪いのに、挨拶もなしに行こうとするからだぜ」
ロウディが憤然と答える。
「それが、買わなくて良い喧嘩だって言うんだ。大体、トレボーの城に行きたいって言うのも、似たようなもんだよな」
アンディは呆れたような表情で、ロウディを見ていたが、思い出したように付け加える。
「そうそう。前にも言ったように、俺は迷宮に入る気はないぞ」
「未だそんな事言ってんのか? 此所迄来て。何の為の二年だったんだ?」
ロウディがうんざりしたような表情で、アンディを見る。
「少なくとも、トレボー城の迷宮に挑む為じゃないな。まあ良い、明日も早いし、俺はもう寝る」
「良くないぞ、アンディ!」
ロウディが怒鳴ったのだが、アンディは既に寝息をたてていて、聞いてはいない。
「相変わらず、寝付きの良い奴だ」
今度は、ロウディが呆れ顔をする番であった。
ロウディとアンディは夜中に交替した。そして、何時もと変わらずゆっくりと夜は明けていった。
「ロウディ。おい、ロウディ。起きろ! ロウディ!」
アンディがロウディの肩を揺さぶる。
「う……」
一言呻いてロウディが、やっと目を開けた。しかし、しばらくは呆然とした感じで、瞳には何も映していないようだった。
「起きたか? だいぶうなされていたようだが?」
アンディは安心したのか、軽い調子でロウディに声を掛け、焚き火に枝を加えた。
「ああ、何か変な夢を見たようだ」
「どんな夢だったんだ?」
「…え、と……。覚えてないな。嫌な気分だけ残ってる」
ロウディが困惑した顔で首を捻る。夢の所為か身体がだるくて、ちっとも休んだような気がしなかったが、ロウディは気にせず、起き上がった。
「大丈夫か? もう少し、休んでからの方が良いんじゃないか?」
「いや、大丈夫だ。それを食って行こうぜ。気にしててもしょうがないからな」
「そうか」
アンディとロウディは簡単に食事を取り、手早く身支度を整えると、並んで歩き出した。
歩きながらロウディは、左手で短刀を弄んでいる。しばらく二人共、話しもせず黙々と歩いていた。
「そう言えば、変な病気みたいなのが流行ってるって、噂があるんだが、知ってるか?」
ロウディが軽い調子で、突然アンディに声を掛けた。
「いや。どんなのなんだ?」
「それがな、どうも突然、狂暴化するらしいんだ」
「狂暴化?」
余りに予想外の言葉だったので、アンディは半ば呆然と問い返した。
「ああ、原因も判らんという噂だ。薬草はおろか、どんな霊薬も効かないらしい」
「へえ。呪文は?」
「呪文もダメらしいぜ。ある僧侶が完治を掛けたらしいが、ダメだったんだと」
ロウディが、重大な秘密を打ち明けるような調子で応える。完治の呪文は聖呪文の中でもかなり高位の呪文で、回復系の呪文としては最強と言われている。尤も聖呪文は精神的なものにはあまり効果はない。精神的なものを治すのには、専ら霊薬を使う。秘呪文にも精神を安定させるような呪文はあるが、使い手は殆どいないし、霊薬の方が効果があるとも言われている。
「完治で治らないんじゃ、どうしようもないか」
「それとな、死亡してもダメらしいんだな」
アンディの反応に満足したのか、ロウディが言葉を継ぐ。
「死亡でもって、どういう事だよ」
「死亡と同時に喪失するらしい。いくらクォインの高司祭でも、喪失した奴を、生き返えらせる事はできないからな」
ロウディは顔をしかめていた。ロウディの言う、クォインというのは、この山の北側の麓にある、ノウムの町で、町中がカドルト神を崇めている、かなり信心深い者達が集まっていた。この町の神官達の使う復活の呪文は、他の町の神官達が掛ける呪文より、成功率が高いと言われている。
「何でそんなのが、流行るんだ?」
「さあ。とにかく流行元は、この辺りらしいんだ」
軽く肩を竦めて、薄く笑いながらロウディが応えた。
「この辺り? しかし、気を付けるにも原因が判らないんじゃ、注意のしようがないよな」
アンディの反応を見て、ロウディは意味ありげに笑っている。
「何だよ、その顔は」
「ふん。俺様には見当が付いてるって事さ」
ロウディが少し自慢気な表情で言う。
「え? 原因は判らないって、今、言ったよな?」
訳が判らない、とでも言いたげなアンディである。
「ああ。ただ、本当の原因かどうかは判らないんだが、狂暴化した奴は、殆どがこの山ん中に入って、傷を負っているのさ。それも刀傷をな」
「刀傷か。……襲われたのか?」
「だろうな。多分、……そいつらの様な山賊に!!」
叫ぶなりロウディは、今迄弄んでいた短刀を右側の木陰に投げた。すると小さく呻く声が聞こえ、一人の男が木陰から倒れてきた。ロウディの投げた短刀が男の胸に突き刺さっている。
「アンディ、注意しろ! 左にも何人か居るぞ!」
ロウディが声を掛けるが、その時既にアンディは、二人の男の襲撃を受けていた。山賊達はどちらかと言えば、アンディを狙っているようだった。ロウディが加勢した為もあって、二人のうち一人は、簡単に倒せたが、もう一人はどうも忍者らしく、なかなか倒せない。アンディとロウディはそれなりに腕が立ったが、何しろ相手が忍者では分が悪い。しばらく三人の刃がぶつかる澄んだ音だけが、山の中にこだましていった。
ところが、ロウディが短刀で倒した男の倒れている木陰から短刀がアンディの頭を目掛けて飛んできた。しかしアンディは、戦いに気を取られているのと、兜の所為で死角に入っていて気が付かない。ロウディにしても、目の前の敵しか見ていなかった。そして短刀はアンディの兜に当たり、跳ね返ってロウディの腕に付き刺さってしまった。
「うっ」
ロウディが呻いて倒れた時、アンディの隙をついて、何故か忍者は逃げ去った。
「ふう。ロウディ大丈夫か? おいロウディ」
ロウディは返事もせずに小さく呻いている。
「刃に毒でも塗ってあったのかな」
アンディが介抱しようと近付くと、ロウディが苦しそうに叫んだ。
「アンディ……俺を…殺せ!!」
「何だって?」
「俺を……こ…ろせ……これ…は…例の……」
ロウディが苦しそうに繰り返す。
「ロウディ!! どうしたんだ」
「早く……お…れが…正気で…いる…うちに……」
そう言うとロウディは俯き、すぐ顔を上げてアンディの顔を見た。しかし、アンディはそこに彼の相棒ではなく、見知らぬ男を見ていた。
「ロウ…ディ。ま、さか……、それが例の……狂暴化?」
アンディの声が引き金になったかのように襲ってきた。アンディは、かつて相棒と呼んでいた男と戦いながら、山賊に襲われる前、ロウディが言った事を思い出していた。
『死亡と同時に喪失するらしい。いくらクォインの高司祭でも、喪失した奴を、生き返らせる事はできないからな』
(そうロウディは言っていた。じゃあ、俺がロウディを殺すのか? 殺せるのか? ロウディを? できるわけがない! しかし……)
そんなアンディの思いと裏腹に、身体はロウディと何とか互角に戦っているように見える。しかし、実際は、アンディの方が形勢は悪い。普段ならアンディが優位に立てるのだが、狂戦士は恐怖を感じなくなる上に、人が身体に無理をかけないように、無意識に押さえている力まで解放してしまう。人にもよるが、大体、狂暴化していると普段の二倍から三倍の力を発揮する。それに技はアンディの方が優れているが、力はロウディの方が強かったので、こうなってはアンディは防御に徹するしかない。尤も、アンディは普段から、防御中心の戦い方を得意としていた。それは故郷で風師と呼ばれる防御中心の剣術を父親から学んでいたからだ。しかし狂暴化したロウディが相手では、どうしても押され気味になってしまう。
攻防を続けながら、アンディは未だロウディの腕に刺さっていた短刀を、何とか剣で弾き、腕から外した。しかし、狂暴化が治まる事もなく、ロウディは攻撃の手を緩めない。そして、アンディが逆袈裟に剣を払おうとした刹那、疲れ知らずの狂戦士でいるはずなのに、何故かロウディがいきなり倒れて、動かなくなってしまった。
「ロウディ、ロウディ!!」
動かなくなったロウディの身体を抱き上げ、その耳元でアンディは力の限り叫んでいた。しかしロウディが、目を覚ます気配は無かった。そして、揺さぶり続けていたアンディの腕の中で、急にロウディの身体は崩れ、跡形もなくなってしまった。
アンディは少し道から外れた場所に、ロウディを葬った。尤も、身体は跡形もなくなってしまったので、持ち物を埋めただけだ。そして土山の上にロウディの剣を突き刺し、ロウディがよく弄んでいた短刀を見ながら、話し掛けるような口調で呟いた。
「これは、俺が持ってても良いか、ロウディ? お前が行きたがっていた、トレボー城の迷宮で、こいつと一緒に戦っていく事にするよ」
そして愛しそうに、一度ロウディの短刀を撫でて腰に差す。その後、山賊共の死体も埋め、その場を立ち去った。
二日後アンディは、ポーグロムで、旅の始めにはあんなに嫌がっていた、冒険者としての登録をした。
灯火も灯していない暗い部屋に、アンディの声が小さく響く。
「今の俺だったら、あんな事にはならなかっただろうか……」
ロウディの形見である短刀を見ながら思う。迷宮から帰るたび、力が増したと思うたびに考える。そして苦い思いと無念さが残り、何時もこの程度では駄目だろうと感じるのだ。
アンディが今、冒険者として此所にいるのは、生前ロウディが固執していた、この迷宮で探索をしていたら、何等かの答が得られるのではないか、と思うからだった。しかしアンディは、未だ回答を見付けられずにいた。
翌日、三つ目の鍵を見付け、町で装備を整えたアンディ達は、地下三階へ降りて来ていた。降りた所は、十字路の真ん中で、東に伸びる通路の北側に扉があった。
「さぁて、どうするかなぁ?」
「取り敢えず、通路を歩いてみるしかないだろう?」
ビルが呟く時には、既に答えは決まっていると判っていても、応え返してしまうアンディである。
「……そうだなぁ」
ビルが珍しく応えを返して、北に伸びる通路を歩き出した。少し行くと、又十字路があり、床に象眼で模様が描いてある。
「『回れ右』ねぇ。信じるべきかな?」
「信じねぇべきだ。あの一階にあった看板の例もあるんだぜ」
ウォーリィが剣の先で象眼模様を叩く。
「真っ直ぐ行ってみるかぁ」
ビルが呟き、一行は真っ直ぐ歩き出した。少し行くと又十字路があるが、今度は床に象眼模様はない。
「うぁお!」
一行が十字路の真ん中に乗った刹那、床が抜けた。
「えらい目に会ったなぁ。みんな大丈夫か? しかし、あの象眼、信じるべきだったかなぁ」
ビルは皆に声を掛け、落し穴から這い出す。
「俺は何とか大丈夫だよ。だけどジェフは大丈夫じゃなさそうだ」
アンディが、ジェフを落し穴から引っ張り出す。落し穴から這い出して皆の傷を見ると、ジェフが一番重傷だった。
「大丈夫か? ジェフ」
ビルがこれ以上進んでも良いか、というような問い掛けを顔に浮かべ声を掛ける。ジェフはソフィーに薬石の呪文を掛けてもらっている。
「呪文を掛けてもらいましたので、大分、良くはなりました」
「このまま、先へ進むのは私の方が心配ですわ。呪文ももうあまり掛けられませんし」
ビルの表情に気が付いたソフィーが、ジェフの代わりに答えた。
「そうかぁ……。ウォーリィには不本意だろうが、町に帰ろう」
ビルが珍しくいきなり宣言し、踵を返した。ウォーリィがビルに反対しようと、口を開こうとしたその刹那、ケインが叫び声を上げた。
「ちょっと待て! 何か、いるぞ」
ケインは盗賊特有の、鋭い視線を前方に向けている。
「……何だ?」
アンディ達もそれぞれ剣を構えたが、相手を捕らえられない。
「お前の思い過ごしじゃ……うわ!」
ウォーリィが、ケインに食って掛かろうとした、次の瞬間に、相手がいきなり攻撃して来た。
「ジェフ、援護を頼む」
「判りました」
ビルに答えて、ジェフが栄唱を唱える為に精神を集中する。
「アンディ! 気を付けろ! こいつら、とてつもなく速いぞ!」
渾身を込めた突きを躱され、ウォーリィが怒鳴る。
「判ってる!」
他の者には判らなかったのだが、アンディはこの相手を、忍者だろうと見当をつけていた。
「眠れ。動きを止め、言の葉のままに……」
ジェフの声が通路に響き渡る。
「誘眠!」
三人いた敵は、アンディが相手をしている者以外、眠ってしまった。それに慌てる事無く、その敵はアンディに襲いかかっていた。
「俺は、昔の俺じゃない!」
アンディが、自分の首筋を狙って突っ掛かって来た敵を、逆袈裟に払う。相手は、こんな反撃をされるとは思わなかったのか、アンディの攻撃で狙いを外された。アンディは払った剣をそのまま振り降ろす。
「アンディ!」
ウォーリィが加勢しようと掛けてきたが、既に敵は息絶えていた。
「大丈夫か、アンディ?」
ビルはジェフが眠らせた敵に、止めをさしていた。
「……ああ」
ビルの声に戦闘中とは打って変わって、アンディは沈んだ声を発していた。剣を拭い、鞘に収めているのも、無意識のうちに、手が動いているだけのようだった。
「どうかしたのか?」
ウォーリィは、何時もとあまりに様子の違うアンディが心配になったのか、強く肩を揺する。アンディは無意識に腰にさしてある短刀を触っている。
「おい、アンディ!」
「……え、ああ。何でもない、大丈夫だ」
「ここんとこ、変だぜー。ところで、こいつが何なのか知ってんのか?」
ケインが死体の懐から、金貨を取り出してながら聞くが、アンディは自分の想いの中に沈んでしまったらしく、ケインの問いにも気付いていないようだった。
「これは、多分忍者でしょう」
応えないアンディの代わりに、ジェフが死体を見ながら言う。
「忍者? あの……先祖は遥か遠い東の国から来たとか、異次元から来たとか言われている、あの、忍者?」
ウォーリィが不思議そうに聞き返す。
「ええ。さっきアンディを攻撃しようとした者が、迷わずアンディの首筋を狙っていました。あれは忍者特有の必殺能力だと思われます」
ジェフがアンディを気にしながら説明する。
「くりてか……何だって?」
「必殺能力です。相手の急所を一目で見抜き、一撃で倒すと言うものです。これは忍者特有の技で、忍者の身軽さと、正確な剣捌きがなければこなせません。まあ、不可思議な技です」
ビルが踵を返し歩き出す。それに無言のアンディが短刀を弄びながら続く。
「確かに不思議な技だ。よく躱したよな、アンディは」
ウォーリィ、ジェフも歩き出した。
「ええ。アンディの腕が良かったのと、あと彼等は十分な経験を積んでいなかったのでしょう」
「十分な経験を積んでねぇ?」
不思議そうな顔でウォーリィが問い掛けた。
「修行中とも言えないでしょう。そう、普通の冒険者なら六人くらいで、地下一階をそれなりに歩けるようになった、と言う程度でしょう」
「あれで? そんな未熟でもその『くりてかるひっと』とかってぇのは使えんのか?」
「ええ」
ジェフとウォーリィの会話を聞きながら、ケインはアンディの手つきを見ていた。
「アンディ。その短刀何なんだ?」
あまりに反応の悪いアンディに、ケインは自分の顔を真正面に持っていって、アンディの瞳を覗き込みながら問い掛けた。
「え?」
アンディは、無意識に弄んでいた短刀を腰に戻した。
「いや。何か何時も、気にしてるみてーだからさ」
「……これは俺の相棒、……だった、奴のだから……」
「へー、アンディの相棒か。どんな奴なんだ?」
何処か呆然としたアンディの答えに、ケインが軽い調子で問い掛ける。
「そうだな、……自信家で実力もある、明るい奴だったよ……」
ケインに応えながら、アンディの表情が変わっていった。酷く悲しそうな、そして酷く苦しそうな表情に。
「どーかしたのか? アンディ。おい、アンディ」
ケインが肩を揺する。
「……ああ、何でもない」
「何でもねーって顔じゃねーぞ」
何となく、気が抜けているようなアンディに、ケインが少し怒った表情を見せた。
「何でもないんだ……」
そう言ってアンディは黙ってしまった。そのアンディの肩を揺すろうとしたケインを、ソフィーが止めた。
「誰にでも知られたくない事、話したくない事というものはあるものですわ。それを無理に聞き出すだけの権利は、誰も持っていません。そっとしておいてあげて下さい。少なくとも今は」
僧侶らしい慈悲深い表情でケインを諭す。
「けどよー」
「大丈夫です。今は、そっとしておいてあげるのが一番ですわ」
ソフィーは柔らかく言ったのだが、それには有無を言わさぬ強さが秘められていた。それを感じ取って、ケインは黙る。
「とりあえず、帰ろう」
ビルが三階の上り階段の所迄、戻って来た時に宣言し、階段を昇る。ウォーリィも、アンディの様子があまりにもおかしい所為か、何も言わずに後に続いた。
アンディも後に続いたが、何時迄も苦しそうな面持ちで、短刀を撫でていた。
町に帰ってもアンディの表情は変わらず、ウォーリィが気分を変えようと、酒場へ行こうと誘ったのだが、アンディはそれを断って、早々に冒険者達の宿へ入って行き、ジェフとソフィーは相変わらず、それぞれ賢者の所と、カント寺院へ行ってしまった。
「どーしたんだろーな。変ってだけじゃねーぜ、あれは」
ケインがギルガメッシュの酒場に向かう途中、誰にとも無く話し掛ける。
「……相棒とか言う奴の事を、考えてんじゃねぇか?」
その声に珍しく、ウォーリィが静かな声で答えた。
「相棒? あの短刀の持ち主、とか言ってた奴?」
「ああ、多分な。俺の推測だが、奴の相棒ってぇのは、忍者と戦って死亡した。……いや、それが原因で喪失したんじゃねぇかと思う」
不思議そうなケインに、ウォーリィは気が付かないようで、考え考え言葉を継いで行く。
「……何でそー思うんだ?」
「俺も訓練場に登録した直後、俺のミスで仲間を一人、死亡させちまったからさ。カント寺院の司祭達に、生き返らせてもらったんで、今はあまり思い出さねぇようになったが」
ウォーリィが意味あり気にビルを見た。
「へー。で、そいつは?」
「そこにいる」
ウォーリィが事も無げに言うが、ケインには誰の事を指しているのか、咄嗟に掴めなかったので、首を巡らして辺りを見回した。
「俺さ」
黙って話を聞いていたビルが、いきなり口を挟む。
「ビルが?」
ケインが不思議そうな顔を、ビルとウォーリィに向けた。
「ああ。しかしあれは、お前のミスじゃないだろう。俺が悪かったんだ」
「お前は、そう言うがな……」
「良いんだよ。俺は生きてるんだから」
ビルがウォーリィの肩を叩いた。
「……そうだな。お前がそう言うなら……、それで良いか」
ウォーリィが苦笑する。
「……アンディにそう言ってやれる奴はいねーのか? あのままじゃ……」
「俺達が何を言っても、しょうがねぇだろ? 何も判ってねぇんだから。下手な慰めなんてのは、しねぇ方が良いんだ。更に傷付けるだけだからな」
ウォーリィが、ケインの肩を軽く叩いた。
「アンディ自身が答えを見付けないと、これはしょうがないだろうなぁ」
「俺もそー思う。でもさ、あの様子じゃー心配じゃねーか」
ビルの呟きを聞いた、ケインが不安を隠せない表情で、冒険者達の宿の方へ視線を向ける。
「アンディなら大丈夫だろうよ。今はああでも……」
「大丈夫だろう。少し時間は掛かるだろうけどなぁ」
ウォーリィとビルの声が重なる。しかしそう言いながらも、ウォーリィは心配そうな、そして何故か苦しそうな表情を見せていた。
「しかしこりゃ、当分迷宮には行けねーだろーなー」
しばらく皆黙って歩いていたのだが、いきなりケインが残念そうな顔で、呟くように言った。
「そうだなぁ。十日程、休む事にしよう」
ケインも賛成し、ウォーリィは少し残念そうな顔をしながらも頷いた。
皆と別れて冒険者達の宿に帰って来たアンディは今日、地下三階であった事を思い出していた。そして今ぐらいの力があれば、ロウディは死なずに済んだのではないかとずっと感じていた。
「ロウディ、本当にあれで良かったのか? 本当に?」
アンディは短刀を、昔ロウディがしていたように弄びながら、心の中のロウディに話し掛ける。何時も迷宮から出てくるたびに思う事でもあり、そして今日は忍者と戦い、勝てた所為もあってか、更に強く思う。
「あの時、俺がせめて今の俺くらいの力があれば、お前は……」
アンディは短刀を見詰めながら、口唇を噛み締めていた。
ビル達がいきなり、十日程休むと言い出したので、久し振りにそれぞれに自由な時間を過ごしていた。尤も、アンディはのんびりと身体を休め、考え事をしているような感じだったし、ジェフは呪文の研究を、ソフィーは相変わらず、毎日カント寺院に通って、祈りを捧げると言うような時間の過ごし方ではあった。
またビル、ウォーリィ、ケインの三人は大抵ギルガメッシュの酒場で、時々はエドモンドを交えて飲み騒ぐ、という事を繰り返していた。
明日には迷宮に入るという日になって、今日も酒場で騒いでいた三人の所にアンディが来て、軽く頭を下げた。
「どうかしたか?」
いきなり頭を下げられたビルが、困惑したような顔をした。
「いや。一緒に、良いか?」
「良いに決まってんじゃねぇか。目一杯騒ごうぜ!」
「親父ー、酒をもー一杯持ってきてくれ!」
ウォーリィがアンディを引き寄せ、自分の隣に座らせるのを見たケインが、主人に怒鳴る。
「騒ごうと思って来たんじゃなさそうだなぁ、アンディ」
ウォーリィの隣に座ったアンディの顔付きを見て、ビルが労るような表情の中に少しだけ好奇の色を見せて問い掛けた。
「ああ。十日前……俺、おかしかっただろ?」
「お前らしくなかったよなぁ」
少し遠慮勝ちに話し出したアンディを、ビルが促すように呟く。
「あれについて、話をさ、しておこうと思ったんだ」
「良いのか?」
ウォーリィが、珍しく心配そうな声を出した。尤も、ウォーリィの予想が当たっているならば、それはアンディにとって、他人に話すどころか、思い出したくもない類いの話だと思うからだ。
「そうしないと、これから一緒に探索は出来ないだろう?」
「そんなこた、ねぇさ」
「俺が、駄目なんだよ」
心配そうなウォーリィに、アンディが儚気な笑みを見せ、入口の方に視線を送る。
「ソフィーとジェフにも声を掛けたのか?」
ビルが振り向いて入口を見た。
「ああ。もう少ししたら、二人とも来ると思う」
アンディがビルに答えたとほぼ同時に、ジェフとソフィーが店内に入って来て、真っ直ぐにこちらに向かって来た。
「遅くなってしまって、すみませんでした。アンディ」
ソフィーの鈴のような綺麗な声に、アンディはただ首を横に振って応えた。アンディが首を振ると、何時も彼の首に掛かってる首鎖が擦れて軽い音を立てた。
「俺は、あまり話すのって得意じゃないから、判り難い所も、あると思うけど」
アンディはそう前置きして、目の前にある杯を見詰め、首鎖に触れながら、幼馴染みのロウディとの思い出を、ゆっくりと話し出した。
酒場の中は、アンディがこの話をするには、あまり向いた場所ではなかったかもしれない。しかしアンディが敢て、此処を選んだのは、ビルは別として他の者達と最初に会ったのが此処だったからだった。此処で皆に話をする事で、ロウディの事を胸の奥にしまって、新たに自分の意思として探索を始めたかったのだ。
アンディの話は、新しい松明が一本燃え尽きる程の時がかかった。アンディが話している間、皆は杯を傾けながら聞いていたが、誰も口を挟まなかった。そして何時の間にか、エドモンドが隣の卓に座っていて、この話を黙って聞いていた。
アンディが話し終わって一息つき、自分の杯に口を付ける。皆は話の内容を噛み締めるように、押し黙ったままだった。
「そっか……」
一番最初に声を出したのは、ウォーリィだったが、それ以上何も言おうとせずに黙り込んだ。
「……俺、違う噂を聞いた事あるぜ」
ウォーリィが黙り込んだのを見て、ケインが遠慮勝ちに呟いた。
「違う噂?」
「違うって、何が違うってぇんだ?」
「う……、その狂戦士の事さ。……まー、カント寺院からの噂なんだけど……」
ビルとウォーリィの声に押されるように、ケインが呟く。
「何が言いてぇ?」
「だからさ、狂戦士は死亡しても、喪失はしない。けど呪文ってのは、一切効かないっての」
苛立ったようなウォーリィの声に、意を決したケインが答えた。
「呪文が効かねぇって……」
「何でだか知らねーけど、攻撃呪文が一切効かねーだけじゃねーらしくて……えーっと、何てったか忘れたけどさ、カント寺院で使う、生き返らせる呪文ってあんだろー?」
ケインがソフィーを見る。
「復活の呪文ですか?」
「そーそー、それ。それとかも受け付けねーとか、何とか……」
「復活の呪文は、私には未だ未だ使えるような呪文ではありませんが、祖父に聞いた事がありますわ。……あの時は、祖父の所に気絶した狂戦士が担ぎ込まれたのです。けれどケインの言うように、狂戦士には呪文は効かないと昔から言われていますし、結局その狂戦士にも、完治の呪文も効きませんでした。亡くなっている訳ではないので、復活の呪文を使う事は出来なかったそうですわ。ただ、狂戦士の死に様や、呪文への耐性等には色々な説があります。それに北の方の者には、戦闘の時にだけ狂戦士の様になる者がいる、とも聞いた事がありますわ」
言葉を濁しているケインに代わって、ソフィーは自分が知っている事を話し出した。
「ソフィー?」
「戦闘の時だけ?」
ソフィーの説明に、ケインとウォーリィの訝しげに聞き返す声が重なった。
「ええ。その者達は、殆ど生まれつきのように、男はほぼ皆が狂戦士になるとも言われていますわ。尤も彼等には、呪文が効かないという事はない、と言われていたと思いますけれど」
「何でなんだろうなぁ」
ソフィーの説明を聞いて、ビルが呟いて考え込みながら、ソフィーを見返した。
「残念ながら、私には判りかねます」
「ジェフは何か知らないか?」
「私が知っているのは、あの山中で狂戦士となった者は、呪文を掛けられたのと同じ状態らしい、という事くらいです」
ウォーリィの促しに、ジェフが少し不機嫌そうな顔で話し出した。
「呪文? そんなのがあんのか?」
「現在、公に知られている呪文体系には入ってはいません。少なくとも、私達魔術師が使う、妖呪文には」
ジェフの声音は、先程の不機嫌そうな響きは消え、何処か懐かしがるような感じだった。
「聖呪文の中にも、無かったと思いますわ。尤も私は、全ての聖呪文を知っている訳ではありませんけれど」
「ただ、迷宮の地下一階の暗闇から城に移動させられた時にも、少し言いましたが、公の呪文体系外の呪文も存在します。秘呪文と呼ばれている呪文は全てそうです。それに魔法の品物の中には、秘められた力を解放すると、喪失するという品物があるとも聞きます。アンディの話等から考えると、その短刀に秘呪文が掛かっていた、と考えて良いでしょう」
「それと、そのロウディという方は、とても強靭な精神を持っておられた」
ジェフの言葉を引き継ぐような形になったソフィーは、穏やかさの中に、尊敬の念を見せる。
「何で、そう思うんだ? ソフィー」
「最後まで、狂暴化させようという力に負けなかったからです。そうでなければ、狂戦士がいきなり倒れるなど、有り得ない事です」
アンディの問いには、ソフィーでは無くジェフが応えた。
「じゃあ……。じゃあ、もしかして、気絶でもさせて、カント寺院に連れてきた方が良かった?」
「いえ。結局その狂暴化させようという力を、消す方法が判りませんから、目覚めれば、永久に狂暴化させようとする力と、戦わなければならないでしょう。いくら強靭な精神を持っていても、それはでは残酷すぎますわ」
「俺もそう思う。それに、ソフィーさんの言う通りなんだ」
「え? ……エドモンドさん、聞いてたんですか?」
ジェフの声に被さって、いきなり聞き慣れた声が聞こえたので、驚いて振り向いたアンディの目の前に、エドモンドが立っていた。
「途中からな。声を掛けようとは思ったんだが……、此処良いか?」
「ええ、どうぞ」
ケインが少し椅子をずらして、場所を開けた。
「と。アンディ、悪かったか? 黙って聞いてたのは」
未だ驚きから覚めないアンディの様子に、戸惑ったエドモンドが言う。
「いえ、かまいません。ただ、思わぬ所から声が掛かったので、驚いただけです……」
「ああ、そうか。それは悪かった」
エドモンドが軽く頭を下げる。
「で、『ソフィーの言う通り』って言いましたけど、何か知ってるんですか? 狂戦士について」
エドモンドが席に着くと、ウォーリィが促すように声を掛けた。
「……さっき、カント寺院に担ぎ込まれた奴が、話を聞いたところ、丁度同じ状態だったらしくて、気絶させて担ぎ込んだらしいんだが……」
「が?」
ケインが身を乗り出して聞く。
「やっぱり完治の呪文も効かなかったそうだ。そしていきなり目覚めて、殆ど同時に喪失しちまったらしい。結局、あの……そっちの魔術師さんは秘呪文だって言ってたな、狂暴化させようって力には、未だ俺達は勝てないんだ。負けない事はあるみたいだがな」
「俺のした事は……ロウディを、悪戯に苦しめただけだったんでしょうか」
「さあ、俺には判らない。ただ、少なくとも気絶させて、呪文を掛けようとしなかった事には、そいつも感謝してるだろうよ。それ以上、苦しまなくてすんだんだから」
「……そう、ですね」
アンディは呟くように応えて、俯いた。
「まあ、俺に出来る事と言ったら、そいつの為に祈りを捧げる事ぐらいだ」
エドモンドが一つ息を吸って、今迄とは違う、軽い調子で言葉を継いだ。
「が、アンディ。お前はそいつの為に、出来る事があるだろう」
「出来る事、ですか?」
エドモンドの言い様に、思い当たる事がないアンディは、鸚鵡返しに聞いた。
「そのロウディって奴の事を覚えているとか、そいつの意思を継いでいく事とかな」
悪戯を思い付いた子供のような表情で、エドモンドが言う。
「ええ、『ひと』は、そうやって生きていくもですから」
「『ひと』とは、そうやって生きた証しを残していくのかもしれません」
ソフィーが諭すように続けた声に、ジェフの独り言のような言葉が重なった。
エドモンド達の言葉を聞いて、アンディは一つゆっくりと頷いた。
「じゃあ、ロウディって奴の冥福を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
いきなりグラスを持ち上げたケインが言い、それに少し遅れてウォーリィが和す。ビル達もそれぞれ杯を空け、最後にアンディが杯を干した。
その後は、冒険の話等をしながら、アンディ達は賑やかに飲んだ。何時もなら途中で帰ってしまうソフィーやエドモンドも、今日は最後まで付き合っていた。
(俺が生きている限り、お前の事は忘れない)
アンディは杯を空け、ロウディに誓うような調子で呟いていた。